ナギサものおき

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ゲーム業界は “縮小する” べき

time 2015/10/05

ゲーム業界は “縮小する” べき

完全な持論です。

最近、大手企業のつくるゲームにはあまり “ときめかない” と言いますか。心打つものが見つからず、ここまで築いてきたキャラクター、ゲームシステム、およびタイトルの価値を活かしきれておらず、マンネリ化しているように思います。

そこで私は、今後ゲームを提供する側として台頭するべきなのは大手企業ではなく、中小企業、もしくは個人レベルであるということを提唱させていただきます。というのは、いったいどのようなことなのでしょうか。

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ゲームにときめかない

なんでだろう。ときめかないっていうのは、簡単に言えば興味を持てないということです。

昔であれば、どうしてもプレイしたいゲームが発売されると知り、それまで眠れない(比喩ではなく)日々を過ごした後、ようやく手にした時の感動とパッケージを開けてからハードに突っ込むまでの高揚感、そして新鮮なゲームプレイ。親にやめさせられても、明日はゲーム内でどんな行動をしようかとか考え続けるだけでも楽しい。

その一連の行動や感情が、そのゲームに対して “ときめいている” ということにしたいと思うのですが。

最近はめっきりなくなりました。もちろん年を食って、もっと外界と接すること(今書いてるやつのことです)への欲求が増えたということもあるのかもしれませんが、もっと他の理由がある気がします。

人は成長するほど固有化する

人という生き物は、生まれたときはみな同じく、言葉は話せませんし、特有の思想を持ってるわけじゃないのですが、成長するにつれて個性が出ていくわけです。生まれた際には「興奮」の感情しかありませんが、その後は信じられないほど複雑化します。

つまり、ゲームに触れ始める最初こそは、ありふれたものでも満足するのですが、成長するにつれて作品の好みが非常に固有化する。作品が作られるときの理念や自分が経験したい感情など、非常に複雑な要素の組み合わせによって、幾億通りという理想の作品の形ができる。

極端な話が、人の数だけ好みができていくということなのです。

つまり、大人にゲームを与えるということは、子どもにゲームを与えるということよりはるかに難しい。子どもに対しては、包括的に妖怪なんとかというゲームを提供していれば満足するかもしれませんが、大人に対してゲームを包括的に与えることはできないのです。

ゲーム業界の問題

ここまでの話で、私が現在のゲーム業界になぜ異を唱えるか、ということを理解する準備が整いました。

ずばり、デカすぎるのです。ゲーム提供する側が。1個のゲームを作るのに数百人というスタッフが必要なのでしょうか。いや、細部までこだわり抜くということも場合によっては重要でしょう。そして売れると信じて開発するタイトルであれば尚更ではありますが。

それにしても、業界大手は、すべてのゲームに対してそういう “デカすぎる” 規模で当たらなければいけないと思ってはいないでしょうか。それによって、人材がいくら多くても、多様なタイトルができず凝り固まる。業界内でも、企業についてそれぞれ役割ができてしまい、これまた思想が凝り固まる。

結果、あのゲーム会社はああいう方針だから自分の好みに合うことはない、という諦めも出てきますし、実際ユーザの好みに対して業界側がフィットできない状況になりつつあります。

つまり、自分にドストライクなゲームを次々提案してくれるという構図では最早ないのです。ファミコン時代を少年少女として生きた方には思い出してほしいのですが、大中小企業かかわらず競って面白いゲームとは何かを挙って考え競争し、良ゲーと呼ばれるタイトルが出たと思えば、クソゲーと呼ばれるタイトルもあり、マニアックな層にのみ受ける場合もまたありました。

どういうことかというと、まだゲームの黎明期で暗中模索しなければいけなかったこともありますが、とにかく一貫した方針ではなく様々な作品を試行錯誤して世に送り出していたわけです。

それが今はどうでしょうか。あの会社といえばこのゲームで狙ってきて、こういう方針を取るだろうとある程度は予測できてしまうではありませんか。それらのファンであるならばいざ知らず、少なくとも私は新しい観点によって生み出されてくる作品にのみ興味があるため、そういうチャレンジ精神を失って安パイのみ狙ってくるような業界には一大人の一思想、一感情として “ときめかない” のであります。

あなたも、「大抵外さず面白いよねー」程度のゲームではなく、本当に感動したり、プレイしていないときでも思考に上ってきてしまうというほど熱狂できるゲームに出会いたくはありませんか?そうであれば、ゲーム業界は “縮小する” べきであるということには、一部でも賛成していただけると思います。

なぜ今まで問題にならなかったのか

ところで、今までなぜ、ここまで書いてきたようなことが問題視されてこなかったのでしょうか? それは、ゲームといえば子どもが遊ぶものだという認識があったからです。

大人が電車内でDSなんかやっていても特に違和感を感じなくなってきた現代においては、ゲームは大人の娯楽として成立するべきものであって、そうであればゲームには多彩な表現や思想が求められるため、やはり一般受けだけするようなゲームを開発していたとしても、大人それぞれの心を打つことができるかどうかは大いに疑問です。

ゲーム業界は “縮小する” べき

それでは、大人にとっても楽しめるよう製品を提供し続けるためには、ゲーム業界はどうすればいいのかというと、乱暴な話であれば、大手企業は全く必要ないと思います。そして多数の、より小さな企業がそれぞれのニーズに対応してリードしていくべきだと思うのです。それは何故か。

思想や方針が凝り固まる

大きい企業などの団体が存続していると、ここまでも述べた通り、社内にて思想や方針を一貫して決めなければならず、それが作品に対しても反映されてしまうことになります。そうなれば、新しい風を吹き込むような作品ができにくくなるのではないかということです。上の命令で作りたくもないゲーム作ってる人もいるでしょう。

そうではなく、できるだけ小規模な団体が、それぞれ非常に特定の層の心を打つような作品を作ることができるほうが、より細かなニーズにも対応することが可能になるのです。そのためには大手企業は必要ありません。

過激な表現をしづらい

作者の意図を表現するためには様々な方法を用いることが求められますが、そのためには暴力的なことなど、あまり一般に対して許容させづらい内容でも採用するのが適切である場合があります。

しかし、大手企業の場合はそのイメージや名誉を第一に考えてしまい、そういった表現を使用しづらいこともあるかと思います。そういう作者の意図をマイルドに表現してしまえば、それを求めていたユーザの心を打つコンテンツにはなり得ません。

ですから、一般に対してどういう表現が適切なのか考えなくてはならない大手企業レベルでゲームを開発するのではなく、もっと小さな企業が、小さなユーザの集団に対して、そういう表現を使う企業であると許容してもらったうえで、そのユーザに対してそういった作品を提供していくほうが、よりユーザのニーズに合っているということができます。

ユーザと企業との距離

企業があまりにも大きくなりすぎると、相対的に1ユーザの意見のウェイトが小さくなってしまうため、ユーザと企業に距離感が生まれてしまいます。つまり、ユーザは企業に親近感を持てなくなってしまいますし、開発者側はユーザの細かい意思まで読み取ることができなくなってしまいます。

それよりは、細分化されたそれぞれの小さな企業が、ユーザを大切にし、その見返りとしてユーザが企業の熱烈なファンとなってくれる。この小さな関係がたくさんできることによって、ゲーム業界全体として幸福になっていくというほうが、開発者としてもユーザとしてもプラスなのではないでしょうか。

個人レベルでも開発が可能になった

一昔前は、本格的なゲームを作り、そして販売するとなれば、大手企業のノウハウやコネがないといけませんでしたが、現在は状況が違って、極端な話ちゃんとしたPCが1台さえあれば、本格的なゲームをたった1人で開発から販売まで行うことすら可能です。ということは、大手企業はゲーム業界にとって必要不可欠であるわけではありません。

終わりに

「ゲームとは何か」が分かりつつあり、それはつまり一般に受ける作品に関するノウハウが蓄積されてきていることを意味します。そうなってくれば、子どもだましには問題ないのですが、大人の心をよりピンポイントに打つような作品が生まれづらいのです。

そのためには柔軟な思想が必要であり、過激な表現が必要となる場合もあり、ユーザとの距離を縮める必要があるのですから、大手企業ではそれに対応することはできません。それに見切りをつけて、ここで我々は、小さな企業のほうを猛烈にプッシュするべきなのです。

影響力を既に持っている大手企業の情報は嫌でも耳に入るのですから、一度それを無視したうえで、ぜひ自分の心を打つ作品を探しに出てみるべきなのではないでしょうか。

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